もらう側から与える側に


人が嫌な気持ちになるときは、こうあって欲しいのにそうはならなかった時。例えば自分のした事を褒めてもらいたかったのに、逆にけなされたり張り合われたりした時とか。

こうあって欲しかった、という感情は幼少期に両親に期待していたこととほぼ同じだ。もし幼少期に期待通りに、欲しい時にはいつでも褒めてもらったり認めてもらったりされていれば、もうそれは十分に満たされているから大人になっても欲しがることはない。

しかし期待通りにならなかった時には、その期待や欲求は満たされないまま年齢を重ねていくことになる。そればかりか、なぜしてくれないんだと怒りが起きる。


そもそも期待をしてしまうのは、自分は欠けているからどうしてもそれが欲しい、という裏がある。すでにあるなら期待しなくても良くなる。これは諦めとは全く異なる。諦めには悲しみが含まれているからだ。


人々のエゴの正体は、そのほとんどが幼少期に満たされなかった、いわゆる欠けた部分のことだ。

心の穴は、心でしか埋められない。

だから人々はその心の穴を埋めたいという欲望によって、様々な活動をしようとする。金儲けをしたり、高学歴になろうとしたり、容姿に磨きをかけたり。


さて、それらの欲求が大部分において満たされた時には何が起こるのか。


まずはそれ以上、何も欲しいと思わなくなる。心が満たされているからそれ以上のものは必要無くなるのだ。

そして欠けた部分を持った人の気持ちが分かるようになる。かつては自分も同じような欠点があったからだ。

すると今までは意地悪な人だと思っていたのが、寂しさや不安からの行動だったとすぐに気づけるようになる。だから腹が立つこともなくなる。そもそも今まで腹が立っていたのは、その人から欠けた部分を埋めて欲しかったのにそうしてくれなかった(というよりできる事ならしている、つまりその人には埋める能力がなかったことを意味する)からだ。

腹が立った時点で自分の中に欠けたものがあって、両親から得られなかったもの(母性や父性)をその時に調達したかったんだ、と気づくことができる。


他人から心の隙間をうめてもらうために、その人に演技をする必要もなくなる。相手が期待している対応をしてあげることで、代わりに私の穴も埋めてもらおうとすることは、契約的な関係だ。


そうやって小さい頃に抱えた欲求に光を当ててあげるのだ。

それを繰り返すことで少しずつ満たされていく。


そして最終的には心が満たされて、何も欠点がなくなるから、何も欲しがらず何も必要としなくなるのだ。


こうして他人の痛みが分かるからどんな人にも優しくできる。優しさはポジティブな感情で、その優しさを他の人に「与える」。誰かに優しくしても、自分は満たされているから何も見返りを求めない。つまり「無条件で」優しくする。


そして魂はもともとポジティブでできているから、怒りのない言動はそのまま本当の君自身になれる。