ふと気付いたこと


ふと気付いた。コロナショックで株から少し距離を置いたところ、なぜか元気になってくる。すると身体を動かしたくなってくる。逆にカネカネ言っていると、なぜか元気無くなってくる。

そこでお金は現状で十分満足できればいいのではないか。なにか入り用になったらその時に考えて、なんとかなると思えればいいのではないか。今までも何とかなってきたから、これから先も何とかなると信じることでいいのではないか。

今無いものを欲しい欲しい言うことは、猫に算数を教えるようなもので、あまりにも理想ばかりが先行して期待し過ぎている。

人によってはただの諦めに見えると思う。もっと欲を出さないと先には進めないし、物事のエネルギーは出せないと。でも今までそうしていろいろ追ってみたけど、どうもしっくりこない。なかなか実現しない事も多いから、達成感よりも挫折や失望、自責のほうが勝ってしまう。これは果たして健全と言えるのだろうか。

何事も努力しなければ究めることはできないと思うが、求めていることに対して楽しさや嬉しさが常になければ、ただの作業になるし苦痛でしかなくなる。

なぜそれを求めるのか。本当に必要なものなのか。もしお金が全くいらない世界にいても同じことをするのか。だとしたらもしお金があったら、株なんかやる必要ないね。真っ先にやめると思う。

今お金に執着しているのは生活がかかっているからだ。家ローン、車、携帯、食費、水道光熱費…俺だけの生活ならいくらでも切り詰められるけど、家族もいるし学校もある。それを考えるとやっぱりお金はたくさんある方がいいと思う。

うーん、そこを何とかなると信じることなんだろうか。

これだけしがみついて頑張っても証券口座の残高は減る一方だ。だからこれは必要ないものなんだというメッセージなんだろうか。

好きなものなら続けられる。続けられるから上手くなる。幼少期からイヤイヤやらされててもプロになっているピアニストもいる。好きなら続ければいいし、嫌なら止めればいい。

上手くなりたいなら嫌な思いをすることは避けては通れない…のか?いわゆるチャレンジと呼ばれる出来事だ。

そうか出来事に対して何か得られるものがあれば、それはプラスとなる。自分を責めるだけならただのマイナスだ。マイナスだから一歩下がる。プラスしか得なければ前に進める。必要だからそのチャレンジがやってきている、という捉え方もできる。

じゃあ口座残高がなくなったら?ほらまた不安で怖い意見が湧いてくる。

結局逃げても自責感情はその他の場面でまた顔を出すことは分かっている。この機会を利用して前に数センチでも進めることが大切なんじゃないか。