個々人の喜びの基準

そうか、そうだった。

マズローさんは5段階欲求を提唱して人が心理的に求めている事を分類していたね。個々人はそのどれかの階層にいるわけだから、やったラッキーと思う事は、その階層の中で得られるラッキーな事であるよね。

つまり、安全の欲求レベルの人がラッキー☆と思える事は、自己実現レベルの人から見たら、えっ⁉︎そんなことで嬉しくなるの⁉︎ってなるというわけだ。なるほど。

自己実現レベルの人がうまくいった!ラッキー☆と思えても、自己超越レベルの人からしたら、あ、喜びはそこなんだね、となるよね。

それから、安全の欲求レベルの人が縄張り意識が強かったら、その人を縄張りから追い出したくなる。だから攻撃的になるんだ。共存できなければ、お互いに縄張りから追い出したくなってお互い傷つけ合うね。

で、願望実現なんだけど、それぞれの階層における願望の実現という事になる訳だね。そしてそれは個々人で全く異なる。

共通的なことはやっぱり「お金」だろうかね。

そうか、それぞれの階層で必要な物が異なってくるわけで、人に勝つためのブランドならば安心の欲求レベルだね。大企業に入るのなら集団の欲求、そのための教育費とかかな。

それで、自分が不安で自信が無ければないほど満足できるOKラインから遠ざかってしまう。ちょっとやそっとの刺激では満たされない。例えば気持ちが不安で-75に落ち込んでいたとする。そこにちょっとラッキーなことがあって+25くらい得られる。だけどトータルではまだ−50だからやっぱり不安なままなんだ。幾分は不安も和らぐかもしれないけどね。

だから高級品なんかで手っ取り早く+にもって行きたくなるから、お金がかかる。じっくり時間をかけて自分でプラスにする訳じゃなくて、何か物に頼って、自分では何もしない状態だ。

じゃあ、なんでそれが+で維持できないんだろう。

そうか、自転車の修理のペンチを拾うラッキー話では必要な物がピンポイントで得られたからそれがラッキーと思えるんだね。つまり、例えばベンツを買ってちょっと間はウキウキするけどそのうち普通の感覚になるのは、ベンツ自体はピンポイントな物ではなかったという事なんだね。嬉しいことには違いないけど、ピンポイントではない。本当は何がピンポイントなのかも本人には区別ができていないから、ざっくりとした嬉しいことを求めてしまっているんだ。未分化。

本当の心の奥では「褒めてほしい」とか「一緒に喜んでほしい」ということなのかも知れない。これは個々人でまったく異なるところだから本人にしかおよそ分からない。

それを今までしてもらえなかったから、何らかの形でそれを誰かにして欲しい。本当は親からなんだけど、大人になるとそんなこと伝えられなくなるし、伝えたところで親もできるのであれば初めからやってる、という訳だ。

褒めて欲しい、という根源的な欲求がある人は頑張り屋さんだから、どこかでは必ず褒められているんだけど、それが嘘に見えてしまう。どうせ口だけだ、とか陰では悪口言ってるんだろう、とか。本当は褒めて欲しいのに、例え褒められてもそれを素直に受け取れない。それは怒りがあるから。

なぜならそのピンポイントにあえて気付きたくない、心の奥にしまっておきたい、ということ。潜在意識の奥に封じ込めてしまうんだ。それを素直に認めるという事は、私は褒められなかった…認めてもらえなかった…愛されていなかった…という悲しい悲しい過去を掘り返す事になるから。

自分ではちゃんと褒められてたし、愛されてた、と思いたいから、現状ですでに満たされていると取り繕う。これが見栄の正体だ。ここを切り崩されそうになると、つまり見抜かれそうになると怒りや攻撃性が高まったり体調が急に悪くなったり意固地になったり、嘘をついたりする、という訳だ。

なぜならこれらは自分の弱みだからだ。自分の弱みを見せて優しくしてもらえてきた人は、同じように弱みを見せる事にそれほど抵抗はない。だが、その弱みに付け込まれるようにされてきた人は、徹底的に警戒心を持つ。例えば弱みをバカにされたり、恥をかかされたり、言いふらされたり、見下されたり、相手が元から持っている弱みを隠すように自分の弱みを利用されてきたり。

だから素直でない人は、今までたくさん傷ついてきているのだ。これ以上傷つきたくないから心を閉ざして、全ての感情エネルギーがこちらに入らないように防衛しているんだよ。

動物たちはその防御壁がない。だから純粋に見える。人間の成人は防御壁がかなり厚い。とっつきにくい人になる。