予想通りに人生を進めること

先日の物事が予測通りに進む事が自分にとっていい事だ、と書いた。予想通りに物事が進む…これは一体何を求めているんだろうか?

例えば株価や悪いこと…悪い事っていうのは自分が嫌だと思うことであって、全生命全体の普遍的な事ではないよね。だから何か起こった時の反応としては


・うわ!ヤバイどうしよう!

・それがどしたの?

・やったぜラッキー☆


に分類される。だがその基準ラインは一人ひとり全く違う。

やったぜラッキー、の心理は、

・起こらないかもしれないけど偶然にもいいことが起こった時

・得した時

・いつか欲しかった物などがふとした時に手に入る

・最悪の事態にならずに事なきを得た

この「いい事」も人によって基準が違う。例えば自転車が壊れてペンチが必要だったけど手元にない。しかし、たまたま道路の脇に落ちていて自転車を直せた、とか。別の人から見たらたとえペンチを見つけてもそれがどしたの?で終わる。つまり、自分にとって必要なものが手に入った時か。

同じように1000円札を拾う。ラッキーと思うのは自分がお金を求めていたから。もしこれが日本では使えないペソ札だったらラッキーとは思えない。

だから各々が必要な時に必要な物があったらそれはラッキーという事だ。でも人はラッキーであってもその状況にすぐに慣れてしまい、次からはあまり感動しなくなる。手に入った瞬間が一番嬉しい。そこからは徐々に感動が薄れてきてしまいには何も感じなくなる。

なぜだろう。

人によってはその感動をいつも感じていたいから買い物を繰り返す。だんだん刺激を強くしていかないとすぐにマンネリしてしまう。だから高級志向になる。つまりよりたくさんのお金が必要になる。そうなるとより高収入の会社に入りたくなる。どんなに嫌な仕事でも、その買い物の刺激のために我慢する。どんどんエスカレートする。底なしの欲望だ。

手に入れてもすぐに喜びが消えてしまう。これらは本当に必要な物だったのだろうか?

そうだ、幸せ感というのは心の中の言語だった。物質では心は埋められない。心を埋めるのは心でしか埋まらないんだ。

欲しいものが手に入って嬉しいのは、それを誰かが欲しがっていて自慢できるという見せかけの快感なのかも知れない。そのデザインが本当に好きだったら誰に自慢する訳でもなく一人で楽しめる。いろいろなケースがあるのだろう。極論を言えば物質を楽しむのなら一人で楽しむ以外に他はないのではないだろうか。だって楽しさにもいろいろあって、同じ気持ちを複数人で感じる事は不可能なんだから。


欲しかった物が手に入った時に感じること、それは「よかった、これでしばらく安心できる」という感覚なら、実は不安を感じていてそれが一時的に解消できたという安心感なのかも知れない。となると、物によって不安が一時的にゼロになっただけで、多少プラスのベクトルが働いてはいるけれどもそれ以上にはなっていない。

というよりも、このプラスのベクトルを求めている、という事だろうか。そうだとしたら、その落差が大きいほどプラスの快感は大きい。このプラスのベクトルをあえて生み出して心のバランスを取っているのだろうか。

そう考えると、人がより高級なものを欲しがるのは、その落差が大きいからより喜びも大きくなる、と思っているからなんじゃないかな。とりわけ他の人が買えないようなより高価なものであれば、優越感も相まっていろんなごちゃ混ぜの快感が得られる気になる、という事だ。

プラスのベクトル:喜び、安心、平和、穏やかさ、尊敬、明るさ…

そうか、これらが自分でまかなえる人はもうそれで完結してるんだね。でも一人ではできない人が高級品や高所得、セレブマンション、高級時計、高級車でもって幾分のプラスのベクトルを得ているんだ。

現在の文明では、一人で何も無しにプラスの感情を得ることなんてできる訳がない!と思ってる人が多数なんだ。だからそのプラスを得るためには何がなんでもお金や地位、名誉、美貌、そんな物達が必要にならざるを得ないんだね。例えもしそれができる人が目の前にいても、絶対に嘘っぽく見えて化けの皮を剥がしてやりたくなるに違いない。または、自分にはそんな能力がない事を見抜かれることもまた怖い。だからそんな爆弾を抱えた人は遠ざけたくなるのは間違いない。

そんな人達は穏やかさも平和さも喜びも、必ず何か交換できるような条件がないと得られないと思い込んでいる。でもそれらは本当は自分たちに標準装備されているんだけど、自分にはそんなアプリ入ってないと思ってるんだ。

それらのプラスの感情を自分の中に見つけられたら、それは君だけの素晴らしい宝物だ。きっと他の人がいくらお金を積んでも得られないものを君はなんの労もなく感じているんだから。