群れる人と1人でも平気な人


よく見る記事に、性格が明るくなればなるほど人が集まる、とか読むけど、人が集まるとその分彼らのネガティブもまた持ち込まれるわけで、こちらが幸せであればあるほど何もしていなくても嫉妬されたり、攻撃されたりするという事もありますよね。


そう、それは確かにある。嫉妬したり妬んだり足を引っ張ったりすることはその人の中にあるネガティブが問題であって君には関係のないこと。ただし、人からのネガティブに君が反応するという事は、君にもその要素があるわけで、それは自分の問題としてネガティブ感情を排除する必要はある。

感情は出来事に対してどう捉えるか、という意見の反映だから、他人と君とでは意見も違うし当然感情も異なる。


僕の質問はこうです。人が進化するとその人の周りに人が集まるのですか?


それは進化とは関係ない。集まりたい人はそこに何かのメリットを感じているわけで、そこが自分の意見と違ってくれば当然不平不満を覚えてくる。その感情の処理は各々で異なるが。

進化すると人が集まろうが1人だろうがそんな事は関係なくなる。みんなで楽しむという目的がある時は集まって楽しむ。一人であってもやっぱり楽しい事が思いつくから、それをする。


僕が集団から離れたくなるのは僕が劣っているからですか?みんな楽しんでいる(ように見える)のに1人だけそこに参加しないのは、僕がひねくれているからですか?


全て自由だ。行きたいなら行けばいいし、合わないと思ったらやめればいい。自分を責めているという感情に気づいているかどうか。集まる人々は自分の属する集団を肯定したい。だが君が離れるという事で、ひょっとしたらその集団を否定されたと捉える人もいるかも知れない。集まる人々はその集団は楽しいという大義名分を振りかざして、そこから離れるという人を「何も分かってない」と罪悪感を植え付けようとしているのかも知れない。自分達を正当化したいから。

君がその集団で感じた個々の嫉妬、不安、罪悪感、劣等感、優越感、これらに触れるのも疲れるわけだ。君は気づいていても、他の人は全く気づいていない。居心地が悪いなら離れるのが普通の感覚だろう。だから君は遠慮なくその場から離れていい。

アストラルワールドの映画では、もがき苦しむ人々の階層に救護班が駆けつける事はあっても、そこでゆっくりお茶を飲む事もないだろう。相手の嫉妬や物欲から攻撃される可能性があるからだ。そして何より居心地が悪い。でも例え居心地が悪くても、無条件の愛があれば受け入れられるのでは、と思ったね。幸せとはその苦しむ場所すら関係ないのでは、と。

愛することと一緒いることは同じではない。一緒にいないからといって愛していない事にはならない。現に救護班はいつでも駆けつけているだろう?決して見捨てていない。

ネガティブな感情は刃物と同じだ。それで相手のオーラを傷つけることができる。またはその刃物を自分に向けて、自分のオーラを傷つけることもできる。自分を責めるという事だ。その傷の一つ一つがオーラに記憶され、それの影として身体の細胞にも宿りやすい。

実際に刃物を振り回している人がいたら、普通の感覚なら離れるだろう?それと同じだから、君が集団から離れたくなるのは普通の感覚なのである。

ネガティブな人といることは疲れる、とあるがじわじわとオーラを攻撃されている状態だ。多少の傷なら数日で癒えるがそれがたくさん蓄積するとなかなか治らないし、むしろそれが普通の状態と錯覚しやすい。でもたくさん傷ついているからエネルギーがすぐに抜けていくし元気がない。レイキなどのパワーを入れても、オーラの根本的な傷口を治さないことにはすぐにまた抜けていく。自転車のタイヤと同じだ。


ネガティブ刃物を振り回す人がいて、君がそれに気づいて、この人は刃物を持っているから離れよう、何か助けが必要になった時は手を貸そう、と思う。これは愛情。

しかしネガティブ刃物で攻撃されて君もまた怒りや悲しみ、仕返ししたいとかいつかやり返してやるなど思ったらそれは君の中のネガティブな感情。

これの違いだ。質問の答えに行き着いたかな。