後悔の種


人生、生きてりゃいろいろあるよね。失敗とか後悔とか…。

これで自分を責めるわけだ。あんなことしたのは失敗だった…。やらなきゃよかった…。なんであんなことをしたんだろう、俺はなんて実力がないんだ…。ダメなやつ…。はあ…。

うーん、なんて暗い思考なんだ。これらも不幸の条件付けと一緒で、後悔の種を持っていることになるわけだな。種からどんどん後悔の芽が生えてくる。

あんなことしたから俺はダメなやつ。だから今度何かあっても、どうせ俺はダメなやつだからまた後悔する事になる、と。

でも過去の思い出と次のイベントには何の関係もない。

次の出来事があらかじめどうなりそうかを勝手に予想してるのは自分。でもそもそもなんでそんなにネガティブな発想になるんだろうか。

自分の過去の思い出に対して、失敗というラベルを貼っているからだね。それを失敗と捉えているのは自分。でもその出来事はもともと成功でも失敗でもなく、ただの出来事。

なぜ自分はそれを失敗と捉えたのか、そこが思考を変える第一歩。なぜ自分はその出来事の結果で自分をのか。失敗は悪なのか。

ふと思い浮かんできたのが両親の存在だ。小さい時から「失敗するな」「負けるな」「うまくやれ」「ダメじゃないの」「なんでできないんだ」と散々言われていた気がする。

だから失敗はダメ、負けるのはダメ、下手したらダメ、できなければダメ、という発想になる。それでもしもダメなことをしてしまったら、それは「自分がダメだからこんなことも達成できなかったんだ…」となって、「自分はダメだ」「バカで能力がないからだ」「だからこの先何をやっても、ダメな俺がやるんだから、ダメな結果しか残せないに決まっている」という結論に至る。

そしてその発想のままで、あらゆる事に対してダメな未来ができるような先回りをするようになる。

これが後悔の種となって、毎日毎日そこから後悔の芽が出ては後悔の実に成長していく。そして自分はその後悔の実を収穫する…。


そういえばこの種の話は前にも気付いていたなあ。この事から嬉しい種、楽しい種を蒔いておけば、いずれその果実を収穫できるというやつ。


だけど気がつくといつも何かふさぎ込むようにネガティブに浸っている。そうだ、思い出した。小学生の頃に先生に怒られてもケロッとしていたら「ケロッとしてりゃいいってもんじゃないの!」と言われたなあ。だから自分を責めて神妙にしてないとダメなんだと思ってた。きっと家でもそんな事あったんだろう。

俺が楽しそうにしてると兄たちがやってきて、意地悪い事をしてはニタニタ笑っていく。だから楽しい事をすると、意地悪されるという条件反射になってしまう。精神構造の最適化だ。そうだ、この思考は最適化された結果であるから、その途中過程を考えなくても済むようになっているわけだ。その途中過程にあえて疑問を持って掘り下げる事、または細分化し直す事は大切なんだろう。


ネガティブな思いを感じたらすぐに嬉しい思考に変える。これは言葉では分かっているんだけどなあ。

じゃあネガティブだったけどすぐにポジティブにできない理由はなに?すぐポジにしたら何かデメリットがありそうかい?

そうだなあ、落ち込んでたけどすぐにケロッとしたら、こんなセリフが浮かんでくる。

「何にもできてないのによくそんなヘラヘラしてられるね。」

「やる事やってから楽しくやりなさいよ」

「反省してないのね」

「そんなに笑ってられるほどアンタに余裕はないじゃないの」

「なんか楽しそうにしてるけど、実際は何もできてない事になんにも気付いてないわ。イタイ人だね」

そうそうこんな考えは毎朝浮かんでる気がするよ。だから何か人並みにできた時だけは楽しく過ごせる気がする。だからゲームでもトップを取りたくなるし、やたらとお金も欲しくなる。