負けるのが怖い…これは本能


やっぱりゲームでも仕事でも、負けるというのは気分が悪い。できれば避けたい。もう味わいたくない。いやだ。つまり、負けるのが怖い。

本当に怖い。不安になるし、自分の存在意義すらも疑い始めてしまう。これはどういうことなんだろうか。

負けるのが怖くなるルーツは、進化段階で例えば自分が草食動物だった時の、あの絶望的な恐怖心。肉食動物の圧倒的な力。対峙したときの恐れ、おののき、恐怖、死を覚悟した悲しみ、劣等感、無力感、出会ってしまった状況に自分が近づいてしまった後悔、そして捕食された時の激烈な痛み、苦しみ、悔しさ…。

それらの強烈な感情が宿った魂の記憶なんだろうと思う。

死を目前にして感じる身体的な痛みと心の痛み。細かく言えば、恐怖を感じるのは痛みに対して感じている気もする。

身体的な痛みへの恐怖心、その怖さがたくさん派生して様々なネガティブな感情が生まれてくる。

弱肉強食の世界では負けることはこれら全てを体感しなければならなくなる。どんな時も常に狙われている恐怖心もあるだろう。ルールなんかない。情けも忖度もない。それはそれは厳しい世界なんだ。だからこそ人間社会は組織を作って、お互いに殺し合わないという暗黙のルールを作り出した。これは互いに安心できるようにする知恵なのだ。

だが、哀しいかな人類はそのルールの中にさえ勝ち負けを持ち込んでいる。年収、持ち物、学歴、身長、ルックス、腕力、能力…

今までは負けること=死ぬこと、それで組織的に殺されないルールを作り出してみたものの、やっぱりまだその死ぬことへの恐怖心から離れられない。これが本能なのだ。

だから勝つこと=生き残ること、それで何がなんでも勝ちにこだわるようになる。負けること、すなわち死が怖いから。その恐怖心が強ければ強いほど勝ちへの執着が強くなる。

他人への自己顕示が強いのはそれだけ負けることに異様な嫌悪感がある、つまり異様に怖がっている。負けることは自己がないに等しく感じ、勝つことは異様な安堵に満たされる。

勝手に何かで勝ち負けを決めて、相手がシッポを巻いてうなだれる姿を見ることがたまらなく快感になる。勝ち残れたという安心感。自分は死なずに相手を殺せる立場にいる、という優越感。その瞬間の快感が大きければ大きいほど勝ち組とされている。

一方負けを認めたほうの惨めさ、劣等感、自己嫌悪、悔しさ、これらは本当に不快だ。

だからといって、勝てば幸せかというとそうでもない。それらの根っこには死への恐怖心がうごめいているからだ。束の間は優越感に浸れるがまたすぐに死への恐怖心が頭をもたげてくる。だからその快感を得るには、また戦いを挑んで勝ち続けなければならなくなる。それがお金のかかることであれば、よりたくさんのお金が必要になる。そしてさらにもっともっと強欲になっていく。

つまり勝ち負けのレールの上にいる限り、幸せではないのだ。

幸せとは、嬉しいこと、楽しいこと、優しいこと…。勝ち負けの執着を捨てて、身軽になること。

こちらが何もしていなくても、勝手に戦いを挑まれることもあるだろう。そんな時は、相手が負けてしまったら恨みや怒りが芽生えて、さらに別の形で戦いを挑んでくるだろう。その時に相手が勝った気がしていれば、なんとなく安心して戦いを挑まれることも減るだろう。

戦いを挑むということは、相手はすでに君を怖がっているということだ。余裕があればムキになる事もないからね。怖いから自分の得意な分野で負かしておこうと考える。むしろ自分は負けているかもしれない…と勝手に考え、勝手に嫉妬して意地でも勝とうとしてくるかも知れない。

だが君がすでに勝ち負けのレールの上にいなければシッポを巻く必要もないから、目の前の現実だけ見て、へえ〜と言っていればいいのだ。君は、君が楽しいと思えることだけしていれば良い。

相手は君を凹ますことができない、文字通りこれはオーラを凹ます意味もあるのだが、そう悟ると君といるだけで勝手に劣等感を抱くから、自然と相手は君から離れていくものだ。そうして、楽しい事を通して、その共感によって繋がりが始まる。