まぶたが重い…眠い訳じゃない

  今回はまぶたに意識を集中する。いつも何か気だるげなまぶたで、昔みたいにパカっと見開いている事が少ない気がしていたんだ。年齢とともに、まぶたの筋力も低下しているのか?いや、体力はまだまだあるからきっと原因は別のところにあるだろう。


  まぶたから声が出て聞こえてきた…「はぁ〜疲れた…」「ちょっと休ませてよ」って、えぇっ⁉︎眠さ全開やないですか。

   そうかなんだか疲れてたみたいだなあ。一体何に疲れてるんだい?

「なんで起きなくちゃいけないの?もう少し眠りたいよ。」

と、言ったところで、また昔の記憶がすぐに蘇ってきた。

   幼稚園〜小学生の頃に週末の朝に寝ていると、父親が忍び足で子供部屋に押し入ってきて「おーい、朝だぞー!」とわざと驚かすように大きい声で無理矢理起こしに来る事が、毎週のように行われていた。僕は幼心にこれがとても嫌だった。

   今考えるとこれはむちゃくちゃ意地悪だ。考えただけで非常に腹が立つ。ひどい。本当にひどいことをされていたと思う。僕は自分の子供には絶対にそんな驚かすような事はしない。そんなことしたら人として嫌われるし、人に対する不信感も子供心に植え付けてしまうからだ。

   きっと僕の父親もそうやって育てられてきたのだろう。それが子供への愛情だと思って生きてきたのだろう。

   だが、今ならはっきりと分かる。その行為は愛情なんかではない。錯覚だ。父親が子供の頃にされたであろう事を無意識に怒りとして抱えていて、同性の僕ら兄弟に仕返しをしていただけだと。八つ当たりだ。許せない。ふざけんなよ。ふー。

   でも許す。いいよ。そのおかげで今ここに新しい気づきが生まれたから。ありがとう。僕は、その記憶をずっとまぶたに封印したまま過ごしていたんだ。ひとつ進めた。

   ひとつ進めただけでもとても大きいことに感じる。

   僕は、全身の細胞は記憶装置だと思う。嫌な記憶は細胞に閉じ込められる。とりあえず解決は後回しにするために。別の嫌な事が起こると、それもまた細胞に一旦保留される。その次もその次も…。

   それを繰り返していると、細胞や器官の貯蔵許容量を超えてしまう。コップから水があふれるように嫌な記憶、嫌な感情があふれ出す。そうなった時、それらの記憶や感情のせいで、細胞に必要なエネルギーを自ら拒否するように取り込めなくなる。なぜなら嫌な記憶というのは、自分から切り離したいし分離させたいと思うから、本来なら入ってくるはずの必要かつ良質、正常なエネルギーからも遠ざけるように作用してしまう。

   自分に「取り入れる」のではなく、「切り離す」ベクトルになるからだ。そうなると、その細胞や器官から身体の慢性的な痛みや、病気として現れてしまうのだ。

    嬉しい時は正常にエネルギーが行き来できる。嫌な感情の時は、それが非正常になる。病気の箇所は単純にエネルギー不足なんだろうと思う。きっとこれが人体の基本的なエネルギーの営みなんだろう。習ったことはないけど、ホメオパシーと言われるものもこんな理屈になっているのではないだろうか。

   細胞に入るはずのエネルギーが来ても自ら蓋をして拒絶してしまうのだ。自分でそれを自分から離しておきたいから…。


   だから、身体で調子の悪い箇所があったらそこに宿る記憶を蘇らせて、嫌だったことやつらかったことを認めて感じてあげるんだ。

   昔嫌だったことを再度呼び起こすわけだから、そこには場合によってはまた嫌な感情が沸き起こることもあるだろう。それを行い、感じるのに必要なものは、きっと勇気だ。自分の中で感じたくなかったことに再度向き合うという勇気。

怖いと思っていたものに向き合う勇気。

不安な考えに向き合う勇気。

許せない出来事に向き合う勇気。

とても恥をかいた事に向き合う勇気。

逃げ出したいことに向き合う勇気。

自分には無理だと思っていたことに挑戦する勇気。

誰かに嫉妬していることに向き合う勇気。


たくさんの人生で起きて欲しくない「と思ってる」出来事の記憶が身体に染み付いていて、例えばそれが筋細胞に宿っていたら、固い筋肉になって身体の動きを抑制してしまう。そうすると、普通の動き自体も重く感じられて、動く時にはさらに余計な力を入れなければならなくなる。つまり、疲れる。これが慢性疲労の正体だと思う。

   理屈で言えば、そんな不安や恐怖などを細胞から解放し続けていけば、僕たちの身体は「無敵」状態になるだろう。

   病気しない、疲れない、好きな時に好きなことを思い切りできる。

   怪我は、怪我が起こるシチュエーション自体に「怪我する場面が起こる」という不安にからまったデータを潜在意識に持っていれば、願望実現の原理で怪我をするという場面が現実化するんだ。だからそれも自分が原因なんだ。