私の話を聞いて症候群

先日、あるBBQに参加した。5歳くらいの子供とその親なんかが参加できたのだが、そこでの観察。

子供らはねえ見てみて、猫がいるよ、とかウサギがいた、とか火がうまくついたよ、とか自分の話を聞いてほしくて大人に近づいてきていた。一方、その親は、うちの家の中にはさ〜、とか最近ちょっとやせたのよ、とかうちの子がこの前さー、とかいう話題だ。

これらの話の本質はよく見たら同じだ。どちらも人に自分の話を聞いてもらいたい、それでへえ〜とか、すごいねとか相槌を打ってもらいたい。実際に何も意見せずにそんな風に対応しているとその場は和やかに過ぎていく。相手も聞いてもらえたという満足感が多少あるようだ。

何が言いたいかというと、本来は子供は親からそんなふうにただ聞いてもらって、すごいねとか良かったねとか言ってもらいたいんだ。だけど親に余裕がなかったりすると全然話を聞いてもらえないし、相槌もうってもらえない。親も毎回同じ話をされて同じリアクションするのもいい加減疲れてしまうから、適当に流したりもする。すると子供は聞いて欲しいのに聞いてくれなかった、とか無視されたとかで、悲しくなったり怒ったりする。そのやり場のない怒りは、兄弟に向けられたり自分に向けられたりする。

子供はそんな無茶な要求はしていない。ただ聞いてもらってすごいねとか言ってくれたらそれでいいんだ。それが叶わない時にあの手この手で気を引いて話を聞いてもらったり、注目してもらったりして欲しいんだ。

実は大人が抱える怒りも原点はこんな些細な事にあるケースがとても多い。その些細なことや小さな傷や怒りが溜まりにたまると、いずれ爆発して破壊的な大事件になったりしてしまう。

だから聞き役の人は辛抱強く聞いてはうなずき、聞いてはうなずきするだけで良い。そんな高度なテクニックはいらない。

相手が聞いて欲しいと思っている話の中身は、先日のマズローの欲求説に則っているようなレベルだ。しかし、どのレベルにも共通することは「共感」してもらうことだ。共感されることで同じ周波数を共有して自己を実感する。共感してもらうことで、その場の自己の欲求は満足する。

それまでに親や家族からたくさん共感という愛をもらってきた人は、他の人からもらえる量は少しでも大丈夫だ。うまくもらえなかったとしても、人を信用できるから別の場所でもらえるだろうと思える。だが、それが叶わずほとんど共感されなかった子は、それ相応の共感という愛をたくさんもらいたくなるのだ。しかし、不幸にも親から共感されなかった子は人間不信になり心を閉ざしていることご多い。だから例え愛を与えてくれる人がいても心に入ってくる愛の量はちょびっとだ。

それにも関わらず本当はたくさんたくさん共感してもらいたい。構って欲しい。見てほしい。話を聞いてもらいたい。この本心と、心を閉ざした自分の二重の自己に激しく葛藤する。そのギャップから苦しみや悲しみ、怒り、失望、自己嫌悪、妬みやそねみが生まれる。愛をくれるであろう人を見つけては、自分だけのものにしたいという独占欲が湧き、自分だけ愛をもらおうとする。相手を束縛し自由を奪うことによって。