光の人達との会話、してみた

一なるものから見た自己の表現とは?


一なるものの姿のイメージは本当に真っ白でなんの凹凸もコントラストもない状態。そこにおいてはなんの相対性も見いだせず、自己を知ることができない。そこで、白でないものを創り出すことで、自分の白さを知ることができる。つまり、自分でないものとの相対性の中で自分を知る、ということが自己の表現といえる。一なるものは、自分の何を知りたいのか、それは愛である。


非物質世界、物質世界における相対性はどんな認識で確認できますか?


大きな一なる自分を知るために、自分の中に別の自分を創り出した。1人や2人だったものが、たくさんの相対性の中から知りたくなったからだ。しかしそこにはまだ形というものは存在していないため、感情的な相対性という世界になった。

   次第にその感情を誘発させるため、形を創るという概念による相対性を生み出していった。ここは非物質世界によるイメージの世界だ。イメージによる相対性だから物事は瞬時に移動したり変化したりする。ここの世界では形あるものと形ないものの相対性も創り出された。

   そして非物質世界では物事は瞬時に変わるが、その中に物質世界を作ることによってすぐに変れられる世界と、すぐに変わらずプロセスを踏む世界の相対性を作り出した。

   さらに物質世界の中に「時間」という概念を作りだした。多方向の時間の中に一方向の時間軸を作り、その中で自分を知る。

   

なるほど、創造の世界はその後どうなっていったのですか?


  さらに、特に地球では法律や常識という概念を作った。そして貨幣というシステムを利用してさらなる相対性を生み出した。それによって自分の中の愛を見出すという経験をしているところだ。


ですが、今の世の中では愛を見出すどころか、辛く悲しいことばかりしか感じられませんよ。ほとんど全ての人が絶望感を抱いています。これについてはどう捉えたらいいのでしょうか?


本来はそれらの相対性を知ることによって、自分の喜びを体験することが目的だったが、君たちはそれを忘れてしまった。というよりも、忘れる、ということ自体も相対性として作り出された。その中からでも愛や喜びを見出すことができるという事を、いま学び、体験して、そして「思い出して」いる。しかし実際には愛を知ることは喜びなのだが、君たちは愛とは正反対のエゴにフォーカスしてしまい、喜びを感じる代わりに不安をいかに消すかに力を注いでいる。

   大部分の人は不安が消えるよう様々な努力をするが(大金を得る、外見を着飾る、など)、不安が消えること=喜びや幸せ、とはならない。

   自己への奉仕は、自分にとって良いことや得になることを得ることで喜びを見出す作業だ。

   他者への奉仕は、他人が喜ぶことで自分の中の喜びを見出す作業だ。

  科学の進歩も、今までできなかったことができるようになった、という喜び、達成感を知るためにある。全ての中で「挑戦」によって新しい可能性を広げられるという期待感と意欲、達成感を得られる。


自己への奉仕は単なるエゴとは違うのですか?


自己への獲得による喜びがある。達成感がある。自己肯定感があるのだ。それを追究する者にとってはそれが唯一の幸せを得る方法となるため、他者への配慮は発達しない。全員が自己への奉仕をしていれば、いずれ全員が達成できるだろうという論理だ。従って、地球の支配層は被支配層を使って自己への奉仕を追究して体験しているのだ。

   達成感を追究する時に、どんな気持ち・感情で行うかが重要となる。